小池志麻テキスト
merry-go-round 3
「merry-go-round3」という作品では、同シリーズのような着ぐるみの部分の着彩をやめた。それはガラスそのままの表情を見せることで、顔の着彩部分をより強調したいと考えたからだ。
私が作品で「着ぐるみ」を扱うのは「イノセント」を装う為の表現であり淡いピンクのうさぎの着ぐるみは私にとっての「かわいい」のアイコンである。全身を「かわいい」で被い「イノセント」を装っているが露出した顔には笑いながら何かを憂いている印象を持たせている。無邪気に遊ぶ少女でありながら同時に自分たちの運命を受け入れた大人でもある。
手と手が繋がった着ぐるみに拘束着のような「不気味さ」を与えた。手を拘束され不自由そうでもあるが繋がることで安心し、バランスを保ちながら互いに身を委ねてダンスをしている。近寄りすぎても離れすぎてもいけない。ある一定の間隔を保たなければならないという暗黙の了解のうえに成り立っている関係は、メリーゴーランドの一時の興奮の後にやがて訪れる終焉の時を背後に連想させ、踊り続けなければ崩壊してしまうこの少女たちの刹那的な関係を表している。
この作品では「集団と個」「かわいいと狂気」「永遠と一瞬」などの相反するものの危ういバランスを表現した。ガラスは透明な素材であり内部には光と影が同時に存在している。それは相反するものの存在を意識しながら同時にその輪郭線を曖昧にさせる。こうしたガラスの持つ性質は私にとって人間の本質や矛盾した現代社会の両義性を表すのに適した素材と考えた。ガラスで人間の姿を作りたい理由は、ガラスは美しく繊細でありながら、その破片は鋭利で狂気を孕むことが人間に似ていると思うからだ。作品「merry-go-round3」では、着ぐるみに被われた身体は光を透過し内部が透けて見え、逆に露出した顔は彩色[make up]された仮面のような同じ顔に逆説的な意味を持たせてる。
硝子で肖像をつくることについて
ガラスは美しく繊細な素材です。でもその反面、ガラスは扱い方を誤ると怪我をしてしまう暴力的で狂気を孕むという両義性があります。ガラスは、今ここに存在していても、バランスを崩すと壊れてかたちを失ってしまうという宿命を背負っています。そしてこのことは限りある生命や、そのひとつひとつの生命の関係性を比喩しているかのように思います。これらのガラスのイメージは、私たちの暮らす現代社会や普遍的な世界観を私に連想させます。
ガラスで肖像を作りたいと考えた理由は、ガラスが人の本質や人の存在に似ていると思ったからです。そこで私は、自分の作ったガラスの肖像を、硝子(ガラス)の硝と肖像の肖の文字と入れ替えて、「硝像」(ショウゾウ)と名付けました。ガラスで人を作りたいと言っても、私が表現したいのは現実に存在する人の姿を彫刻したものや、リアリティーを追求するものではありません。私が作りたいガラスの肖像「硝像」とは、人と動物がミックスされたような、神話やおとぎ話に出てくる登場人物のような姿をしている場合や、デフォルメや抽象化させた人の姿です。また、動物そのものや、物や植物の形態をかりて、人を表現することを試みることがあります。それはもしかしたら私が「あまのじゃく」なので、素直に人を表すのに抵抗があるからなのかもしれません。
人間とは何か、生きるとは何か。
私には到底この壮大で難解な問題の答えは一生かかってもわかりません。この問いはまるで人間がこの世界に誕生した時に、神様から与えられた重力のように思います。でも例えば、私にもこんなことならわかります。好きな本を読んでその物語の世界を空想している時や、動物や植物などの自然とふれあう時、その瞬間ふっと気持ちが無重力状態になるような感覚です。まるで絡まった糸が解けるような、そして何かと繋がるような感覚なら私は知っています。
「作品とは、そこにファンタジーが在るか否かだ。」と誰かが言っていました。いつか私の作った「硝像」を見てくれた人が、密かに5ミリくらい浮んでくれたらと願いながら、これからも制作を続けていこうと思います。